2006年10月21日

お知らせ

 途中ですが、休載します。いつの日か、必ずや再開します。
 これまでのアクセスに感謝します。
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2006年10月20日

V どんなエクリチュール?(29)

 完全にコピーするには、オリジナルを入手し、使用し、所有しなくてはならない。そこでこそ、システムはつまずく。まあよいのは、パーカーのコーラスを拡大すること、その形式的可能性を広げること、極端にさまざまな構成的文脈において演奏することである。こうして構築された模擬プログラムは、手の届かない対象、ここではパーカーの演奏を知り、展開するには役立たねばならない。
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2006年10月19日

V どんなエクリチュール?(28)

 しかし、この気取りのなさには、何の痕跡もない。まさしく逆に、この試み全体が刺激されるのは、新音楽的形式の進歩、発展の希望によってである。ジャズには特に、構成のカテゴリーの統合によってである[原注]。「jジャズ」ほどのとらえどころのない、つかの間の素材に適応させて、この試みができたのは、目標を定めそこない、主張を知らせることだけだった。

原注:疑うかもしれない人は、著者の音楽学的仕事に当たるしかない。この発展的イデオロギーのは、平行的ではあるが、意味がないわけではない。特に、ジャン・バロケの作品への批判的愛着が理由である。
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2006年10月18日

V どんなエクリチュール?(27)

 そこで、アンドレ・オデールはピエール・ブーレと論争した。はっきりした目的は、以下のことを証明することだった。ジャズは単なる気晴らしとは違ったもので、ジャズも他の音楽同様の形式的な徳を持っていて、その特性は同じようにためになるということだ。その領域では、しかし彼は全く負ける可能性しかなかった。
 ジャズの特権はスウィングである。つまり、喜び、エネルギー、ダンス、情動である。西洋の音楽には貴重な性格、「時間外」があり、ゆえに身体外であり、エネルギー外である。エネルギーと科学、喜びと制御、身体と頭をつなぐ、「2国語併用」と著者自身が名づけるものを浮かび上がらせるように仕事をするのが全く適切ならば、そのためにはなお、それらの二分法を根本的に捨てなくてはならない。それは彼の好きなファンとジャズの関係に利する――かれがしてみたいジャズのミュージシャンとの関係以上であろうことが多い。同じく、言説を捨てないとならない。それは彼らに利し、オデールが選ばれた話し相手のまさしく言説である。
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2006年10月17日

V どんなエクリチュール?(26)

 Matti Jarniven から何が学べるだろう。意図的に著者自身、「ジャズの世界」[原注略]に姿を現わしている。ジャズの作曲者の第一人者である。彼以前に存在するのは、編曲者、さらには主題の作者のみである。彼の野望はジャズ的な特性を驚かすことである。この全く新しいスウィング、欲動のこの感覚を、知的伝統が可能にさせる、大いに複雑なエクリチュールにおいて。この位置には、魅力という有利さがある。それがソリストに約束するのは、自分固有のスタイルに忠実な存在であるが、瞬間から生じるあらゆるカスやあらゆる間違いの、構造的な演奏と、予見できる排除によってかなりなまでに強化されている。それが構造に約束するのは、錯綜と絡み合いの欲望で尊敬されることで、同時に、52番通りのナイトクラブでの熱狂的なコーラス同様に生き生きした表現力によって確かなものとされることである。そして、これらは皆、十分なまでにずるいエクリチュールの力によるもので、その結果、最も完全な優雅さでこれらすべての喜劇が演じられるのである。
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2006年10月16日

V どんなエクリチュール?(25)

6.見せかけ
 ジャズの言語の歴史に従えば、固定や再生においていつもはしょられて否定されるインプロヴィゼーションを、容易に発見できよう。つまるところまさしく西洋的なエクリチュールの強迫によってである。普通のことであるが、こういった傾向はいわゆる結晶化し、純化され、何人かの作家たちによって本当の起源に帰されるかのようである。その中には見張り役のアンドレ・オデールも見える。ジャズとエクリチュールのこれらの関係のかなりはっきりした分析法に基づくと、彼は結果を極端なところまで押し進め、見せかけの本当の戦略にまで達した。彼の行動はその意味では、分かたれた一つの文化の二つの側面の間の、60年代に発した、構造的な傾向にある、まれなる明晰な移行の一つであった。
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2006年10月15日

V どんなエクリチュール?(24)

 しかしパーカーは? 彼は全速力で即興演奏していた。それは確かだ。極端に複雑な構造で(例えば「チェロリー」)。しかし、これらの構造は比較的「数多くなく」、とにかくそのせいで、想像できる自由の広大な領域を狭めている。あたかも、自分自身、素材を定義したかの領域を毎日走り回りながら、見せかけから見せかけへその境界を描き、楽譜を書いていた。
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2006年10月14日

V どんなエクリチュール?(23)

 しかし、大オーケストラの時代から早くも、実のところ1925年からだが、当時、本当の伝統を鍛え上げていたソリストの、表現の枠組みをなす書かれた表現への懸念が見つかる。フレッチャー・ヘンダーソンからカウント・ベイシーまでには、ほとんど10数年しかないが、傾向が全く一変してしまっていて、ソリストのインプロヴィゼーションがこれほどまでに大衆の効果に枠組みされてしまった結果、少しずつ、ほとんど何でもなくなってしまっている。機能的な音楽である、スウィングの時代のジャズは、予見の部分を全面的に取りやめた。ソリストは当時、見せかけの状況にいる。彼は演奏しているように見せて気取っている。たえず同じ決まり文句を再生産し、繰り返しては、そうして続けようとしている。「ビーバップの革命」の根本的な理由だったことが見えた。ミュージシャンは演奏様式を変える。「メーンストリーム」方式の典型的な注解の変奏曲を、「フレーズ・コーラス」と名づけなくてはならなかったものに変えた(調和的な一覧表やどんどん複雑になるリズム的な明確さに関する、アドリブの変奏曲)。見せかけの状態は続く。決まり文句は性格を変えるが、たえず存在している。ソリストにはせいぜい、可能なかぎり広いレパートリーはあるが、大きなリスクなしに、だいたいの時間はそれを使い尽くす。
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2006年10月13日

V どんなエクリチュール?(22)

 たぶんややせっかちだが、アメリカの黒人音楽にインプロヴィゼーションの深い革新を見たい。全く明白ながら、ジャズの歴史を通してずっと、集団的発明のこういった状況が絶えず存在している。しかし全く同様に、この歴史においては、エクリチュールが果たした役割の重要性を見ることができる。バディ・ボールデンのオーケストラが世紀初頭に演奏していた音楽は、大衆に知られる多量のスタイルに言及していた。完全に書かれたラグタイムから、パレードやサーカスや行進の音楽に、ゴスペルソングまでである。ほぼ20年代から30年代までだけ、演奏は指向的というより自発的なようである。ルイ・アームストロングやシドニー・ベチェットの初期の録音が、平行的にも共同的にもそれを証明している。
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2006年10月12日

V どんなエクリチュール?(21)

 しかし、この言説の余白に、予見されるあらゆる形式化の外に、一つの音楽が浮かび上がり、エキセントリックになるには十分に遠すぎる文明からではなく、バビロンのまさしく中心にである! 「一瞬、アゴラ[古代ギリシャの市民の集会所]でわけのわからないことを話すのが聞こえ[原注略]、この「どもりたちのばかげた沈黙」をぶち破り、「色のついた人々」が、ブルースと踊りと歌を吐き出しながら、言説の木を揺らし、効果をまき散らす! 何て美しいのか! サルトルによって歓迎された「黒人の大きな叫び」と、確かで死も招くけだるさからの西洋のこれらの「シンコペーション製造機」のイメージは。
 また、何て疑わしく見えるのか! この、原初的で本能的で絶対自由主義の形式の理想化は、その名も「スウィング」だが、60年来、言説のあらゆる作用に不運をもたらしている。カールズとコモリが強調したが、初期のジャズのこの「純粋な」形式、20年代のニュー・オーリンズのスタイルは、完全に西洋のの白人の影響に満ちていて、われわれの文化形成の根幹にジャズを別なふうに響くのを聞こうということである。
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